幼児教育
幼児教育は、一人ひとりの成長に多大な影響を与える。
なので、そこにかかわる教育者たちはそのことを自覚して向き合うべきであろう。
志のない、教育の意味も深く考えない人たちによって運営されるべきではない。
ましてや、単なる位置ビジネスとしてことに望んではいけないのである。
幼児期から小学校低学年の間に、人の基本的な資質は決まるのではないだろうか。
その大切な時期に、それを認識しないまま漫然と指導教育することは、後のその人物の人生にもかかわる一大事となりかねない。
教育の結果は成人してから顕著に現れる。
しかし一方では、学校教育や幼児教育など、基礎教育が全てではない。
幼いころに、名門の学校や英才教育を受けたとしても、成人してからは、それが自分を位置づける自慢のネタにもならないことを知っておくべきではないか。
親が入れ込み過ぎて、子どもに負担をかけているケースもある。
大抵の場合は、近所や知り合いの同じ位の子を持つ親同士の狭い世界での競争に過ぎないことも、少なくないはずである。
森が見えていない親は、どこにでもいる。
話は横にズレてしまうが、子の名前にしても、素っ頓狂な事を考える親は、非常に短絡的な人生を送っていることのように思う。
小さい、まだ自覚というものを知らない間は良いのだが、子が自分の名前を意識し始める時の事を考えていないのだ。
子は、一生、その足りない知恵を持った親が考え出した名前と付き合うのだ。
夫婦で似た感性を持ってしまうと、取り返しもつかない。
結婚相手は、やはり類は友を呼ぶことが多い。
家庭用学習教材
ダイレクトメールがしつこい。
というか、どこで情報を仕入れたのか、非常に気味の悪い社会になったなと思う。
電子メールは事前に承諾が無いと送信出来ないのに、ダイレクトメールは関係ないらしいから厄介である。
子どもの教育は、親の責務である。
したがって、どうしても親は子に期待してしまうが、その親が、ステレオタイプを生み出す公教育で長い間、脳に刷り込まれていることを子に伝承することの危うさに気づいていない。
カエルの子はカエルの可能性は非常に高い。
つまり、長きに渡って勉強しても、ライフプランやファイナンシャルプランについては無知なままという事実。
税金をいいように搾取され、少ない賃金で働かされることを、自ら進んで望むという愚かさ。
良い大学に入り、良い企業に就職するという既成概念が崩壊したにも関わらず、相変わらず、良い大学に入って良い会社を就職するための勉強をしているではないか。
で、働き出すと、何か違うと言う始末。
遅いのである、気づくのが。
どうしてわざわざ、自由の効かない場所で働きたがるのか。
報酬をギリギリにまで抑えられている市場に、自分を必死に売込もうとするのか。
その行動が安定という意味不明な目標に対する回答なのか。
働いても上がらない給料に文句を言う人は、自ら、その道に進んだのではないのか。
学生のウチに、社会の情報や仕組みを親が教えるべきなのだが、それが出来ないから、同じような間違いを世代を超えてやってしまうわけだ。