思いやりの精神
日本語は曖昧なことが多い。
やんわりとした言葉で、あとは文脈や雰囲気で察するということも多い。
外国の方が誤解をする有名な話だと、また今度、と言って別れると、今度とはいつのことだろうと疑問を持ったという話だ。
外国の方にとっては曖昧で分かりにくいところもあるかもしれないが、私はこのような日本語が好きだ。
相手のことを思いやる心から生まれた表現だからだ。思いやりの精神が好きだ。
この思いやりに日本人としての誇りを感じるのだ。
言葉は伝えるものだから、正しく伝わることが第一だ。
その点で、曖昧な日本語は嫌われやすいのかもしれない。
だが忘れてはいけないのは、人間とコミュニケーションをする道具が言葉であるということだ。
相手が人間である以上、その人を思いやる気持ちは忘れてはならない。
コミュニケーションの原点ではないだろうか。
だが、近年、自らコミュニケーション障害であると名乗る人がいて、対応に困ってしまうことがある。
単に人付き合いを避けるための言い訳として使われている気がしてならない。
確かに、今の世の中、極論すると1人で生きていける人はいるかもしれない。
最低限の他人との会話、例えば、インターネット上だけの付き合いなどで満足できる人も確かに存在する。
ところが、インターネット上で歪曲した付き合いもあることが問題になるのである。
相手の素性が見えないことのリスクは、知っておかなければならない。
SNS等のコミュニケーションツール
上京後疎遠になっていた友人との繋がりが復活したり、意外な繋がりが出来たりして楽しかった頃の話です。
国内SNSの先駆け?
初期のmixi(成人以上、招待制だった頃)を利用して、上京後疎遠になっていた友人との繋がりが復活したり、意外な繋がりが出来たりして楽しかった頃の話です。
mixiで自分を起点として全く接点のない友人達(上京後の会社の同僚と地元の高校時代からの友人)が私の日記へのそれぞれのコメントを見て好感を抱きあい、紹介を頼まれ2人がmixiでの「友達の友達」から「友達」に。
その数年後、会社の同僚が縁も所縁もない私の地元に移動願いを出したと思ったら…。
2人はいつの間にか友達から恋人へ、そして夫婦になりました。
今ほどSNSが主流では無かった時代なので披露宴での馴れ初め紹介は「私の紹介」となっていました(嘘ではない)。
複数のSNS利用の敷居の低さはいらないと思う。
敷居の低さによって個人特定のしやすさや個人情報の漏れやすさ、それに対する意識の低さやネットリテラシーの低さが最近気になります。
チャイルドロック的なものは破られてしまうとは思うが、未成年者への利用制限(まではいかなくても成人と同様のサービスまでは無くてもいいと思う)は何かしら必要だと思うしそういったサービスがネット契約や携帯契約の際に欲しい。
ネットリテラシーについても本来なら個人で学ぶ、ないしはネットをしているうちに学んでいくものだと思っていましたが、学ぶ前に炎上し個人が特定される事例が多いように見れるのでリテラシー教育サービスがあると少し安心できると思う。