一歩を始める勇気

私は水の中を泳ぐことが好きだ。
小学生の頃から習い事で水泳をしていた経験が大きい。

得意な泳ぎは平泳ぎ。
平泳ぎでいつまでも泳ぐことが好きだ。
水の中では無心になることができる。

この水泳をしていた時期の自分を振り返ると、とても健康的な生活をしていた。
ごはんは3食たくさん食べ、水泳教室に通い、休みの日は市民プールに行っていたのだ。

食べた物はエネルギーとなり、プールで消化するため脂肪がつくということもなかった。
今もそのような生活をしていれば、健康的に素晴らしいことは分かっている。

ただ、腰が重すぎて動かない。
私と同じように運動に億劫な人は多いのではないだろうか。

運動をすることへの壁になっているのは、自分の意志の弱さだ。
運動をするということは、自分に勝つということ。
まずは最初の一歩を踏み出すことが重要だ。

せっかく好きな水泳という運動があるのだ。
始めて後悔をすることはないだろう。
ところが、運動自体がトラウマになっている人は、どうしようも出来ない。

スパルタ指導でスポーツを毛嫌いする人もいれば、根性論や精神論で全く理論的でない指導に身体を壊した人もいるだろう。
怒鳴れば指導が成り立っていた時代は既に終わっている。

が、今でも、実績も何もない近所のオヤジが、少年野球のコーチとして偉そうにしているのを見ると、我慢ならないという友人もいるくらいで、非常に根深いものがあるのだ。

泳げるということ

夏だ。
プール、海水浴、とかく水物のシーズンである。
プールで思いっきり泳ぎ散らしたい。
そして、海に行って思いっきり波に漂ってみたい。
そう思うこのごろながら、いかんせん私は泳げないのである。

知人の子供が、スイミングスクールのバタフライ検定に受かったそうな。
まだ小学生である。
小学生の時分、私はもっぱらビート板のお世話になっていた。
なんなら、中学時代でもビート板が欲しいなと思っていた。
事実、遠泳をする臨海学校のとき、実力別でチーム編成をするのだが、私は本当にビート板を要する悲しいドンジリ班に振り分けられた。
不平は言うまい、事実は動かしがたいのである。
確かに私にはビート板が必要であった。
それにつけても、その知人の子の素晴らしさである。
私はその子の何倍か人生を生きてきたが、バタフライで泳げたことはついぞ一度もないままだ。
確かに高校の水泳授業では習った。
けれども、その頃私は、みんなが小学校でマスターするところの平泳ぎをやっと見られるくらいのレベルで泳げるようになったにすぎなかったので、バタフライなんて見たことすらなかった。
そんな訳だから、やってみろと言われたところで出来るはずもない。
見よう見真似で両腕をぐるぐる回してみるが、どんどん水中に沈んでいくので、傍から見たら、ただ溺れてもがいている人である。
もはや、今更バタフライができるとも思っていない。
けれども、子供可能性と言うのはまったく計り知れないものである。
頭が本当に柔らかい。
今の時期に色々興味を持って臨めば、できないことなんかなにもないのではないか。
そう思って、生き物の進化というのを目の当たりにしたような気がするのである。

«
»