ほくろの血豆

今年、初めて整形外科にかかった。
顔にあるほくろを除去するためだ。

どうしても好きになれず、一番イラついたのはホクロ占い盲信して真剣にアドバイスする友人だった。

正確に言うと、顔のほくろを取っても痕が残らないか、先にお腹にあるほくろを除去して確かめるために病院に行ったのだった。
お腹にあるほくろは9mmサイズで、どんどん大きくなっていたので、顔をする前に試してみようと思ったのだった。

保険適用外のため思ったよりも少しだけ高かった。
綺麗に除去できたのだが、そのあと2ヶ月ほど経った今、ほくろがあった位置に血豆が出来ているのだ。
ほくろと違うのは、爪で押すと痛いこと。

黒い血豆ができていてはほくろと同じなので、これもどうにかしてもらいたい。
しかし、一回一回治療にいけばその分、治療費を取られてしまうので、行けずにいるままだ。

私がお世話になる整形外科は患者さんが多く、女性の年齢層は幅広く、男性患者さんも大変多かった。
待ち時間が長いため、みなさん、私のように血豆に残りませんでしたかと尋ねたいぐらいだ。

心のどこかに、腫瘍ではないかという不安が正直ある。
だからこそ早めに外科か皮膚科で診断してもらうのが最善ではあるが、強引な楽観的観測で先送りしているのが現実である。

いざという時に後悔しないためにも、明日にでも受診しようと思う毎日である。

心の盲点

目には盲点というものがある。
ちゃんと目を開いていても、一箇所見えない部分がある。
それと同じことが、心の目にも起こると思う。

心の目といっても、別に「心眼」というような高尚なことではない。
ただ単に、いつも見ているはずなのに、全然目に入らなかった、というあれである。
あまりに馴染みすぎてというか、日常の風景と化してしまっているために、ことさらに注意をひかないもの。
そんなものは、心の目には映らない。
いや、脳内の目といった方が正しいか。
これは余談だが、こころを指すときに心臓を指すのは誤っている。
心臓は心臓、こころを司っているのは紛うことなき脳みそである。
だから、「こころが」と叙述する際には頭を指してしかるべきである。
というのはあくまで持論である。
それはさておき、その心の目の盲点に、顔のほくろがある。
私には、子供の頃から顔にほくろがいくつかあった。
人より多いかしら、と気にした時期もあったけれども、それはそれということで仕方ない、と思って忘れていた。
普段は心の目に見つからずに忘れてすごしているのだけれども、どういう訳か時折ふと思い出して目に付くことがある。
ちょうど本日のことだったのだが、夜顔を洗っていたときのこと。
何だか肌が疲れているわあとふと悲しく思ったときのこと。
顔にあるほくろが気になった。
昔から多いほうだったけれども、それにしたってこんなところにはなかったというのが5、6箇所。
気づけばシミのように増えているのだった。
それが一旦気になり始めると、どうして今まで気づかなかったのかがかえって不思議なほどに気になってくる。
もしきちんと気づいていたら、対処のしようがあったのかもしれないのに、これでは今更日焼け止めを塗った所で時既に遅しではないか。
そう思って、過ぎ去った時を恨めしく感じたのである。
という訳で、やはりこころの目はいつ何時でもしっかりと瞠っておかなくてはならない、という格言的なことを、図らずも実地体験してしまったのである。

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